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「web-magazine GYAN GYAN」では、第三者的な視点でロックを検証してきましたが、当サイトではプライベートな感覚で、より身近にロックを語ってみたいと思います。
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  ★ プロフィール
HN:
matsuZACK
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/02/15
自己紹介:
matsuZACKです。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
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★2020/11/15 (Sun)
THE WHOといえば、
ピート・タウンジェント、
ロジャー・ダルトリー、
ジョン・エントウイッスル、
キース・ムーン、
の4人が思い浮かびますが、
その長い歴史においてこの布陣は、
半分にもならない期間であったこと…
今になると驚きの事実であります。

それでも、
多くのファンがそう思うということは、
当時の彼等のプレイが、
強烈な個性を放っていたからで、
ここには異論をはさむ余地がないでしょう。

ただ、リアルタイムで、
THE WHOの姿が我々、
日本のファンに正確に伝わっていたかと言われると、
そこには疑問が生じます。

なぜかと言えば、
そのメンバーで来日していないから…
つまり、
日本のファンには、
ライブを体験していなかったことが、
致命的であったわけです。

私は1970年代の中頃、
中学時代に、
ウッドストックやモンタレーの映像を見て、
たいへんショックを受けましたが、

スタジオ・アルバムを聴いて、
「?」と思い、

唯一のライブ・アルバムである、
『ライブ・アット・リーズ』を聴いても、
イマイチ納得がいかず、
モヤモヤした気分が晴れませんでした。

映像で見たTHE WHOは、
レッドゾーンに突入するような、
ダイナミックレンジを振り切ったような…
そんな印象でしたが、

LPの彼等は、
ダイナミックレンジの中に綺麗に収まった、
お行儀のよい音に感じられたのです。

そのポップさが理解できなかった。

そんなTHE WHOの全貌がわかったのは、
皮肉にも、
キース・ムーンの死後に出された、
『ザ・キッズ・アー・オールライト』(1979年)
の映像と音源によるものでした。
ここでようやく私は、
彼等が何者であるか理解し、
あらためて、
そのサウンドを研究することになるのです。

私は、
THE WHOは、
あまりうまい表現ではありませんが、
完全なる白人のポップ・ミュージック…
ブルースやソウルからの直接的な影響を、
音から感じることのないバンドである、
と思っています。

そこが私には心地よいのです。
リッチー・ブラックモアとの共通点かもしれません。

その要因の一つは、
ピートがあまりリードを弾かないことにあり…

本人もインタビューで、
「オレは、クラプトンやベックみたいなことができなかった」
と言っているように、
主体はコードプレイで、
そこにさまざまな工夫を凝らしているのです。

そのセンスは抜群で…
私もかなり影響を受けていると思います。

そして、
ピートの音の空間を埋めるように、
ジョンとキースが弾きまくる、
叩きまくるわけです(笑)

とくにキースは特異なドラムスタイルで、
初期はハイハットをセットしていますが、
後期になるとツインバスの横にハイハットが…ない(笑)

彼はカウントや曲間の隙間に、
タムのオカズを埋めることで、
リズムをキープするのでした。
だから、
常に叩きまくっているように見えるのです。

リンゴ・スターとキース・ムーンが仲良しなのは、
『ザ・キッズ・アー・オールライト』でも、
確認できますが、
リンゴの息子であるザック・スターキーに
ドラムを教えたのはキースのようで、

そう考えると、
今のメンバーは納得がいく人選、
ということになると思います。
(ザックはかなり洗練されていますが…)

イギリスでは、
ビートルズ、
ストーンズに次ぐ、
影響力の大きなミュージシャン、
と評価されています。

アメリカでも、
元KISSのエース・フレーリーのように、
全盛期のTHE WHOから多大な影響を受けた、
と公言するミュージシャンがたくさんおります。

我が国でも、
もっと評価が上がってほしいところですが、
今からでは難しいのかな?
新作の出来がよかったので、
久しぶりに彼等の旧作を聴いたりしています。
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★2020/11/08 (Sun)
訃報ばかりが並ぶお年頃になりましたが…

そんな中で、
THE WHOは昨年、
13年ぶりの新作『WHO』を発表しました。

私はずっと気にしていたのですが、
最近になって中身を聴く機会があり、
「これは!」と思い、
ようやく入手したところです。

私が入手したのは、
2020デラックス・ヴァージョンという、
アコースティック・ライブが
追加されたものでした。

また、じっくり聴き込んではいませんが、

一聴した印象では、
1曲目の「All this music must fade」から、
あのTHE WHOサウンド全開で、
ロジャーもピートもまったく衰えておりません。

この2人は不死身だろうか…(笑)

追加された、
アコースティック・ライブは、
懐かしい、
往年の名曲が勢揃いで、
こちらも味わい深い、
素晴らしい演奏でした。

個人的には、
「Substitute」と
「The kids are alright」が感度的でした、
そして「Won't get fooled again」の
アレンジがよかったなぁ…
ピートはギターうまくなりましたよ(笑)

LED ZEPPELINが、
あんな形で、
バンド活動を終わらせてしまった一方で、
THE WHOは、
メンバーが亡くなろうが、
耳が聞こえなくなろうが、
ロリコンで逮捕されようが(笑)

とにかく、
シブとくバンドを続けています。

このシブとさは、
Rockerの「鏡」と言えるのではないでしょうか。

最期までのたうち回るんだよ。

ザック・スターキーも、
ピノ・パラディーノも、
すっかりバンドに溶けこんでいて、
フルヴォリュームになった瞬間、
オリジナルメンバー?と思うことがあるほどです。
(とくに、ピノはいいベーシストだと思います)

ここで、
来日したら、
めっちゃ盛り上がるだろうに…
今の環境がうらめしい限りです。

しばらくは、
このアルバムと、
これまた見逃していた、
ドキュメンタリー映画を見て、
ひとりで盛り上がるとしましょうか。

それにしても…
THE WHOは不滅です!

おまけのシールは、
どこに貼ろうかな?(笑)

★2020/11/01 (Sun)
訃報続きですが…

近藤等則さんが逝去しました。

1990年前後の時期に、
熱狂していたことを覚えています。

こんなに乱暴で、
ブッキラボーなのに、
最新の音に敏感なトランペッターは、
見たことがありませんでした。

出会いは、
1985年『Metal position』という作品からで、
1曲目の「Night drive」の荒涼とした景色…
アルバムタイトルそのままの、
クールでメタリックな音をバックに、
短いリフのようなメロディを叩き込む、
近藤さんのプレイに一瞬にして惚れ込んでしまいました。

彼のバンドIMAのメンバーが強力で、
ベースにフリクションのRECK、
キーボード、富樫春生
ギター、酒井泰三
ドラムス、山木秀夫
という強者揃い…

RECKはすでによく知っていましたが、
山木秀夫という、
稀代の名ドラマーに出会ったのは、
このアルバムで、
以降、
彼のソロアルバムを追いかけ、
参加作を手当たり次第に聴くことになります。

そして、
『Metal position』に続く、
1989年の『Tokyo rose(東京薔薇)』は、
天安門事件に対する抗議を表明した、
「China demonstration」や、
地味変の「Purple haze」のカヴァーで話題になりましたが、
個人的にベストトラックは、
山木さんのビートがひたすら心地よい、
「F1 Republic」(よく聴くと阿波踊りのリズムです)と、
近藤さんが砂漠でトランペットを吹いているような、
「Timeless man」で、
この無国籍サウンドは、
当時のワールドミュージック・ブームにぴったりで、
何しろ文句なしにカッコイイと思ったものです。

続く1991年の『Brain war』からは、
CMに起用される曲も出て、
近藤さんはすっかり時の人になり、
TVの歌謡番組にも出演しておりました。

とは言え…

ステージ同様、
スーツ姿にサングラスをキメて、
ガニ股で闊歩しながらトランペットを吹く姿に、
ジャズミュージシャンのイメージはなく、
それを期待していた視聴者の期待を裏切る、
まさに拍手喝采の勇姿でありました。

一方、
ドラムの山木さんはこの時期、
IMAと並行して、
1990年に『Tentelletsque』(傑作!)
1993年に『Shadow run』(ジンジャー・ベイカーと共演)
という2枚のソロ作を発表しておりますが、
いずれも近藤さん譲りの、
無国籍音楽で、
こちらにも熱狂したものです。

ギターの酒井さんとは、
2000年頃にネットで知り合い、
前にやっていた、
ホームページの掲示板に遊びに来てくれたりして、
いろいろな話をした覚えがあります。

ウワサでは、
近藤さんも、
ツアーでのアルコール摂取量は半端なかったそうで、
多くのミュージシャンが70歳あたりで力尽きるのは、
その影響があるのかもしれません。

それにしても続きますね…

ご冥福をお祈りします、
と言いたいところですが、
近藤さんは不死身な顔をしていたから、
その言葉が似合わないかもしれません(笑)

ヴァン・ヘイレン、
加部さん、
近藤さん、
みんな素晴らしい音楽をありがとう…
こう言った方が良いかもしれませんね。
★2020/10/25 (Sun)
右目の白内障手術の入院前夜、
9月27日に、
ルイズルイス加部さんの訃報が飛び込んできました。

さすがに、
そういうタイミングだったので、
話題にすることをやめましたが、

入院中は、
ネット上に公開されている、
加部さんの自伝「気ままに生きる」を読み、
Apple Musicで曲をダウンロードして、
故人を偲びました。

私が彼の雄姿を初めて見たのは、
高校の終わり頃、
ジョニー・ルイス&チャーのステージで、
その独特の雰囲気と個性的なプレイに圧倒されました。

その後、
ゴールデン・カップスの存在を知り、
ラジオ番組で鈴木ヒロミツさんのトークから、
当時の武勇伝の数々を聞き、
いっそう惚れ込んだものです。

京都でモップスとジョイントし、
リハを終えて中華料理を食べていた際、
「マズイなぁ…やっぱ中華は横浜だよ」と
ブツブツ言っていたと思ったら、
その後、行方不明になり、
まさかと思ったマネージャーが、
自宅に電話をかけたら母親が出て、
「あ…今、帰ってきましたよ」と…(笑)
(ちらしずし、でもやりましたね)

コンサートをすっぽかすのは常習だったようですが、
自伝を読むと、
当時はなにしろ彼女と会いたかったとか…
そちらの方が大切だったのですね。

ジョニー・ルイス&チャーで
LAに遠征した際も、
(市制施行、何周年記念とか言ったイベントで、
野外で演奏したような記憶が…)
彼らの演奏のスゴさに焦ったイベントの主催者に、
となりのステージの音が聞こえなくなるからと、
途中で中断させられた場面で、

怒るチャーが後ろを振り返ると、
「マーちゃん(加部さんの愛称)、片付けてるし…」
「ホテルへ帰ればいーじゃん」と…(笑)

けっして虫を殺さず、
部屋にハエが入ってくれば、
外へ出してやるというのは、
有名な話で、

ピンク・クラウドというバンド名は、
加部さんがバークリーに住んでいたときの、
隣の住人の名前で、
奥さんはシルバー・スターといい、
ヒッピーのカップルだったとか…

映画『ワンモアタイム』
で証言される、
当時の加部さんはラリパッパーだったようで(笑)
そんなあなたこそ、
永遠のヒッピーだったのではと思ってしまいます。

私がショックを受けたのは、
ピンク・クラウド時代に、
初めて発表したソロ・アルバム
『Moon like a moon』で…
ここで加部さんのギターを聴き、
独特のフワッとした感じに驚き、
彼がギターを担当した、
カップス最後期のライブを聴くに及びます。

ジェフ・ベックみたいなんですよ。

そしてこの方は、
ベーシストでも、
ギタリストでもなく、
アーティストであると悟るわけですが、
こんなミュージシャンは日本では彼一人、
と言ってよいでしょう。

今回、
彼の訃報以降は、
カップスやジョニー・ルイス&チャーではなく、
その間の時期にあたる、
フードブレインや、
スピード・グルー&シンキ、
ピンク・クラウド以降では、
再結成ウォッカ・コリンズを聴きました。

カップスで一世を風靡した、
ドリドリン…とうなるリード・ベースは、
あの時期だけで、
バンドに合わせて、
最高のベースを弾く加部さんが、
そこにいました。

いろいろな逸話が象徴するように、
気ままに生きる…
その時、
自分がもっとも心地よく感じる音を、
気の向くままに演奏している、
ということがよくわかります。

個人的には、
アランを中心に、
かまやつさんの、
お洒落なリズム・ギターが光る、
ウォッカ・コリンズが素晴らしく、
もっと聴き込んでみようと思っています。

自分にとってのヒーローたちが、
次々と逝ってしまうのは、
さびしい限りですが、
こんなミュージシャンは、
もう現れないだろうなぁ…

★2020/10/18 (Sun)
あれは確か、
高校1年の冬のこと…
(1977年)

アルバムがリリースされるかなり以前に、
オンエアしてしまうことで有名な、
渋谷陽一氏のラジオ番組で、
一枚のニュー・ディスクが紹介されました。

それは、
ヴァン・ヘイレンのデビューアルバム、
『VAN HALEN(邦題:炎の導火線)』で、
その夜は、
「On fire」
「Runnin’ with the devil」
「Atomic punk」の3曲がオンエアされました。

当時のハードロック界は、
ZEPが健在で、
DEEP PURPLEは解散して数年が経ち、
初期RAINBOWが全盛期、
KISS、AEROSMITH、QUEENの新御三家は、
安定した地位を獲得し、
さて、
後続組は…となると、
スコーピオンズ、ジューダス・プリースト、
という感じの状況でした。

そこへいきなり登場したのが、
ヴァン・ヘイレン…
夜のラジオ番組に、
文字通り“いきなり登場”してきたわけです。

私は1曲目でぶっ飛び、
後の2曲を慌てて録音し、
それから毎日のように聴くことになるのですが、
何か、
ケタの違う大物が現れた、
と感じた事は、
あれから40年以上経った、
今でも鮮明に覚えています。

ZEPのニュー・ヴァージョンが現れた!
そんな印象でした。
(そして、アメリカのバンドとは思わなかった)

その後、
シングル「You really got me」がリリースされ、
プロモーション・フィルムがテレビで放映されるようになり、
ディヴ・リー・ロスを初めとする、
ゴージャスなルックスと、
エディの右手が指板を叩く姿に衝撃を受け、
春頃になり、
アルバムの国内盤が発売されました。

アルバムが発表されると、
「Eruption」で何をやっているのか、
まったくわからず…

それを、

日曜の昼頃に、
東京12チャンネルで放送されていた、
「ROCKおもしロック」という番組で、
バウワウの山本恭司氏が、
「アレはこうやっているんだよ」と、
ヘラヘラ解説をした直後から、
日本中のアマチュアギタリストたちが、
必死になって右手で指板を叩くようになったのです。
(司会の近田春夫氏に、
「この人、さりげなく自慢しますから」
と突っ込まれていたような記憶が…(笑)

そして、
あの白黒ストライプのストラト、
(今でも、時々欲しくなる…)
ノコギリでチョン切った、
真っ赤なエキスプローラなど、
使用ギターも個性的で、
これまた、
大勢のアマチュアギタリストたちが、
自分のストラトにビニールテープを巻き付けたものでした。
(私は当時、
黒いレスポールを使っていましたが、
ご多分にもれず、
そこへ白いビニールテープを巻き付けました…(笑)

悪趣味スレスレの派手な衣装と、
猥雑な雰囲気のロスが、
ハードロック・ヴォーカリストの理想型であるとすれば、
その横で、
ひたすら超絶テクニックで弾きまくるエディの姿も、
ハードロック・ギタリストの理想型でした。

ただ、
エディのテクニックはあまりにも超絶で、
セカンド・アルバムの時点で、
早くも、
ついていけなくなった私は、
その後、
ファンクやソウルといった、
16ビート系のカッティングに視点を移し、
ハードロックから離れてしまうのでした。
(正確に言うと、
エディとウルリッヒ・ロス…
「カロンの渡し守」のイントロの2つで挫折したのです)

再び、
ヴァン・ヘイレンに関心を持ったのは、
シングル「Pretty woman」で、
カバーのセンスというか、
ポップな曲の良さは、
このグループの特徴で、
それゆえに、
この後「Jump」以降の大躍進があるわけです。

そして私は、
デイヴ・リー・ロスの存在あってのヴァン・ヘイレン、
と思っていたので、
彼の脱退以降は急速に興味を失い、
風の便りに、
エディがガンと闘病していると聞いた程度でしたが、
65歳の若さで逝ってしまうとは…
本当に、
早過ぎるとしか言いようがありませんね。

デビューから、
大物になる過程を見てきたミュージシャンが逝くようになると、
いよいよ、
自分も歳とったなぁ…と感慨深いものがありますが、

もう、
こんなギタリストは出てこないだろうなぁ。

↓やっぱコレでしょう

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★ ILLUSTRATION BY nyao