「web-magazine GYAN GYAN」では、第三者的な視点でロックを検証してきましたが、当サイトではプライベートな感覚で、より身近にロックを語ってみたいと思います。
★ カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
★ フリーエリア
★ 最新コメント
[01/25 matsuZACK]
[01/23 shiba]
[01/02 matsuZACK ]
[01/02 ういん]
[12/27 shiba]
★ 最新トラックバック
★ プロフィール
HN:
matsuZACK
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/02/15
自己紹介:
matsuZACKです。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
★ ブログ内検索
★ 最古記事
★ P R
★ カウンター
★2014/01/26 (Sun)
年明け早々の1月16日、
J-POP界の名プロデューサー、
佐久間正英氏、逝去。
享年61歳。
昨年夏頃、
自身が末期の胃がんであることを公表していた…
プロデューサー?
たしかに、
功績として残したものの多くは、
そうであったかもしれませんが…
私にとってこの方は、
ベーシスト以外の何物でもなく…
四人囃子のベーシスト…
いや、
当時の日本ロック界屈指のスゴ腕ベーシストとして、
強烈な印象を残しているのです。
1976年、
四人囃子が待望のセカンドアルバム
『ゴールデン・ピクニックス』を発表した際、
ベーシストとしてクレジットされていたのが、
佐久間さんでした。
四人囃子は『一触即発』という、
日本ロック史に残る傑作でデビューを飾り、
注目を集めていました。
とくに、
森園勝敏さんのギターは、
センス・テクニックともにバツグンで、
日本中のロック少年たちのアコガレの的でした。
ただ、
デビューの段階で、
あまりにも完成度の高い音楽性を持っていたためか、
その後、
試行錯誤を重ね、
メンバーが流動的になり、
少し活動が停滞していました。
佐久間さんは、
オリジナルメンバーであった、
中村真一氏(2011年逝去)の後任として、
四人囃子に参加。
一時期5人編成になった時期もあったのですが、
また元の4人編成に戻り、
『ゴールデン・ピクニックス』を発表。
しかし、
今度は看板ギタリストであった、
森園さんがバンドから脱退。
後任に佐藤ミツル氏を迎え、
1977年に『PRINTED JELLY』を発表。
バンドは再スタートを切りました。
この後はメンバーも安定し、
アルバムを数枚発表しましたが、
佐久間さんが四人囃子と並行して活動していた、
プラスティックスが話題を集めるようになった、
1979年から1980年頃から活動を休止。
佐久間さんの活動もプラスティックスに移行し、
そこではベースを弾かず、
シンセサイザーをプレイしていました。
私は四人囃子を見たさに、
中学3年のときに、
フジテレビの公開スタジオライブを見たのですが、
森園さんもおらず…
しかし当時は情報が少なくて、
その後、
しばらくするまで、
あのときのギターが、
ハルヲフォンの小林克己氏であることを知りませんでした。
「森園さん太った?何で歌わないの?青いストラト持ってるんだ…」
なんて感じでした。
余談ですが、
佐久間さんが後にインタビューで、
この時期のことを…
「森園さんが急に脱退したので、
すでに決まっていたスケジュールは、
小林さんを代役に立ててこなした。
ただ、
小林さんはたいへん器用で重宝した。
森園さんがエコーを使ってリピートさせたフレーズを、
手動で…エコーを使わずに、
それこそ克明に再現してみせたので、
メンバー全員大笑いだった。」
などと語っていたので、
中学生だった我々が、
それをわからなかったのも、
無理はないことだったかもしれません。
さて本題に戻りますが、
そこでの佐久間さんのベース…
これがスゴかったのです。
ピックでゴリゴリと白いジャズベーを鳴らし、
尋常でないドライブ感を生み出していました。
グレッグ・レイクに、
さらにノリを良くした感じ?
あまりのスゴ腕に圧倒されてしまいました。
『ゴールデン・ピクニックス』では、
全編でこのようなプレイを堪能できるのですが、
森園さん脱退後の作品では、
さらにヒートアップしたプレイを聴くことができます。
とくに、
『包』(1978年)では、
「眠たそうな朝には」とか「機械じかけのラム」など、
プレイヤーとしてのピークを感じさせる楽曲が、
多数収録されています。
また、
「なすのちゃわんやき」(『ゴールデン・ピクニックス』収録:
転調をせずに最初と最後でキーが半音上がっている不思議な曲)
のイントロでリコーダーを吹いたり、
「ハレソラ」(『PRINTED JELLY』収録:この曲サイコーです)
ではマンドリンを弾いたり、
『包』には大々的に弦のアレンジを入れたり、
従来のロックサウンドのイメージにとらわれない音作りを
していて、
このあたりのセンスが、
後にプロデューサーとしての才能を
開花させるに至るのではないでしょうか?
もともと佐久間さんは、
ギタリストだったそうで、
ただ…さすがに四人囃子には森園さんがいて、
ギターでは仕事が来ないだろうから、
ベースを主体にしたと語っておりました。
それゆえに、
ギタリストの求める役割、
(アレンジャーとして:ジョン・ポール・ジョーンズのような)
ギタリストがコーフンするようなフレーズを、
よくわかっておられたのでしょうね。
だから私は、
いまだに四人囃子の諸作を聴くと、
佐久間さんのベースプレイにコーフンしてしまうのです。
正直なところ、
佐久間さんは私の理想のベーシストのひとりです。
今回、
佐久間さんに関連して、
四人囃子の資料を見ていたら、
前述の中村さんの他、
茂木由多可さん(5人編成時、『NEO-N』にキーボードで参加)
も2003年に逝去していることがわかり、
あらためて、
ああ…みんな年取ったんだなぁ…と思い、
私が初めて佐久間さんのプレイを見てから、
もうすぐ40年が経とうとしていることに気がつき、
諸行無常を感じてしまいました。
しかし…残したプレイは永遠です。
佐久間さんはじめ、
みなさんのご冥福をお祈りしています。
J-POP界の名プロデューサー、
佐久間正英氏、逝去。
享年61歳。
昨年夏頃、
自身が末期の胃がんであることを公表していた…
プロデューサー?
たしかに、
功績として残したものの多くは、
そうであったかもしれませんが…
私にとってこの方は、
ベーシスト以外の何物でもなく…
四人囃子のベーシスト…
いや、
当時の日本ロック界屈指のスゴ腕ベーシストとして、
強烈な印象を残しているのです。
1976年、
四人囃子が待望のセカンドアルバム
『ゴールデン・ピクニックス』を発表した際、
ベーシストとしてクレジットされていたのが、
佐久間さんでした。
四人囃子は『一触即発』という、
日本ロック史に残る傑作でデビューを飾り、
注目を集めていました。
とくに、
森園勝敏さんのギターは、
センス・テクニックともにバツグンで、
日本中のロック少年たちのアコガレの的でした。
ただ、
デビューの段階で、
あまりにも完成度の高い音楽性を持っていたためか、
その後、
試行錯誤を重ね、
メンバーが流動的になり、
少し活動が停滞していました。
佐久間さんは、
オリジナルメンバーであった、
中村真一氏(2011年逝去)の後任として、
四人囃子に参加。
一時期5人編成になった時期もあったのですが、
また元の4人編成に戻り、
『ゴールデン・ピクニックス』を発表。
しかし、
今度は看板ギタリストであった、
森園さんがバンドから脱退。
後任に佐藤ミツル氏を迎え、
1977年に『PRINTED JELLY』を発表。
バンドは再スタートを切りました。
この後はメンバーも安定し、
アルバムを数枚発表しましたが、
佐久間さんが四人囃子と並行して活動していた、
プラスティックスが話題を集めるようになった、
1979年から1980年頃から活動を休止。
佐久間さんの活動もプラスティックスに移行し、
そこではベースを弾かず、
シンセサイザーをプレイしていました。
私は四人囃子を見たさに、
中学3年のときに、
フジテレビの公開スタジオライブを見たのですが、
森園さんもおらず…
しかし当時は情報が少なくて、
その後、
しばらくするまで、
あのときのギターが、
ハルヲフォンの小林克己氏であることを知りませんでした。
「森園さん太った?何で歌わないの?青いストラト持ってるんだ…」
なんて感じでした。
余談ですが、
佐久間さんが後にインタビューで、
この時期のことを…
「森園さんが急に脱退したので、
すでに決まっていたスケジュールは、
小林さんを代役に立ててこなした。
ただ、
小林さんはたいへん器用で重宝した。
森園さんがエコーを使ってリピートさせたフレーズを、
手動で…エコーを使わずに、
それこそ克明に再現してみせたので、
メンバー全員大笑いだった。」
などと語っていたので、
中学生だった我々が、
それをわからなかったのも、
無理はないことだったかもしれません。
さて本題に戻りますが、
そこでの佐久間さんのベース…
これがスゴかったのです。
ピックでゴリゴリと白いジャズベーを鳴らし、
尋常でないドライブ感を生み出していました。
グレッグ・レイクに、
さらにノリを良くした感じ?
あまりのスゴ腕に圧倒されてしまいました。
『ゴールデン・ピクニックス』では、
全編でこのようなプレイを堪能できるのですが、
森園さん脱退後の作品では、
さらにヒートアップしたプレイを聴くことができます。
とくに、
『包』(1978年)では、
「眠たそうな朝には」とか「機械じかけのラム」など、
プレイヤーとしてのピークを感じさせる楽曲が、
多数収録されています。
また、
「なすのちゃわんやき」(『ゴールデン・ピクニックス』収録:
転調をせずに最初と最後でキーが半音上がっている不思議な曲)
のイントロでリコーダーを吹いたり、
「ハレソラ」(『PRINTED JELLY』収録:この曲サイコーです)
ではマンドリンを弾いたり、
『包』には大々的に弦のアレンジを入れたり、
従来のロックサウンドのイメージにとらわれない音作りを
していて、
このあたりのセンスが、
後にプロデューサーとしての才能を
開花させるに至るのではないでしょうか?
もともと佐久間さんは、
ギタリストだったそうで、
ただ…さすがに四人囃子には森園さんがいて、
ギターでは仕事が来ないだろうから、
ベースを主体にしたと語っておりました。
それゆえに、
ギタリストの求める役割、
(アレンジャーとして:ジョン・ポール・ジョーンズのような)
ギタリストがコーフンするようなフレーズを、
よくわかっておられたのでしょうね。
だから私は、
いまだに四人囃子の諸作を聴くと、
佐久間さんのベースプレイにコーフンしてしまうのです。
正直なところ、
佐久間さんは私の理想のベーシストのひとりです。
今回、
佐久間さんに関連して、
四人囃子の資料を見ていたら、
前述の中村さんの他、
茂木由多可さん(5人編成時、『NEO-N』にキーボードで参加)
も2003年に逝去していることがわかり、
あらためて、
ああ…みんな年取ったんだなぁ…と思い、
私が初めて佐久間さんのプレイを見てから、
もうすぐ40年が経とうとしていることに気がつき、
諸行無常を感じてしまいました。
しかし…残したプレイは永遠です。
佐久間さんはじめ、
みなさんのご冥福をお祈りしています。
PR