「web-magazine GYAN GYAN」では、第三者的な視点でロックを検証してきましたが、当サイトではプライベートな感覚で、より身近にロックを語ってみたいと思います。
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★ プロフィール
HN:
matsuZACK
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/02/15
自己紹介:
matsuZACKです。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
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★2008/09/07 (Sun)
7回にわたってプログレッシブ・ロックを特集しましたが、
最後に『web-magazine GYAN GYAN』で未掲載だった作品、
「“存在すること”の不安」をお届けしたいと思います。
これはメルマガ『文学メルマ』のために書き下ろした作品で、
同誌2002年6月25日号から7月17日号に掲載されました。
長い作品なので、4部に分けてお届けすることにします。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1、ロジャー・ウォーターズの“宇宙”
2002年3月28日、ロジャー・ウォーターズは、東京国際フォーラムに“宇宙”を創造した。この場合の“宇宙”とは、文字通りの物理的な空間のことではなく、人間の内面に存在している精神世界を指している。彼は自己の中にある“宇宙”を、音と光と映像を融合させて、3時間という時空の中に出現させたのである。
ステージにおけるロジャーは、非常にリラックスしているように見えた。それは、かつて我々が目にした、脅迫観念におびえるナーバスなロジャーでも、傲慢な態度で独裁者としてふるまうロジャーでもなかった。彼は非常に冷静な態度で、自身が抱える精神世界のすべてを、聴衆の前にさらけ出したのである。バック・バンドは各曲のオリジナル・サウンドを再現することに専念し、新たな解釈を加えることは極力抑えられていた。
「達観したな…。」
私は、そんなロジャーが、表現者として一段高い境地に到達していることを感じた。修羅場のような創作活動の果てに、彼が辿り着いた境地は“自然体”。すべての事象をあるがままにとらえ、自然に沸き上がってくる創作の意欲に身をまかせるということだ。
「これから、何かを始めようとしているんだ…。」
ラストに披露した新曲には、現在のロジャーの姿が投影されていた。会場全体を包み込むような、慈愛の光に満ちたこのナンバーが、彼の新しい第一歩を象徴していたのである。
そんなロジャーを語る際に、無視することのできない存在がピンク・フロイドだ。
ロジャー・ウォーターズが1983年まで、ピンク・フロイドの中心的メンバーとして活躍していたことは周知の事実である。ピンク・フロイドは、ロック・シーンにおけるトップ・グループであり、プログレッシブ・ロックというジャンルの創始者だ。ロジャー・ウォーターズは、ピンク・フロイドの基本コンセプトを維持し、音楽ファンに発信し続けてきた。彼のこれまでの創作活動は、その大半をピンク・フロイドに捧げたと言っても過言ではあるまい。
そして、ピンク・フロイドにおけるロジャー・ウォーターズを語る際に、欠かすことができないキーワードが3つある。
まず、シド・バレット、
そして、『The Dark Side Of The Moon』、
最後に『The Wall』。
この3つのキーワードがロジャーの精神世界に及ぼした影響力の大きさは、東京国際フォーラムのステージからも、窺い知ることができたのである。
ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、ニック・メイスンが参加していたスクール・バンドとシド・バレットが出会ったのは、1965年のこと。彼等はまず“ピンク・フロイド・サウンド”と名乗り、その後グループ名を“ピンク・フロイド”に改めた。
“ピンク・フロイド”というグループ名は、シド・バレットが当時飼っていた2匹の猫、“ピンク”と“フロイド”から付けられたそうである。“ピンク”も“フロイド”も、ブルースマンのファーストネームだ。“ピンク”はピンク・アンダースン、“フロイド”はフロイド・カウンシル。
グループ名の由来からもわかる通り、初期のピンク・フロイドはシドのワンマン・バンドである。シド・バレットが、ピンク・フロイドの基本コンセプトを確立したのだ。そしてシドは、シュールな詩とサイケデリックな音のセンスによって、次第にカリスマ視されるようになったのである。
しかし、シドを含めたピンク・フロイドのメンバーは、音楽を表現するテクニックが稚拙過ぎて、カリスマの意識の中にある音を、100%表現することができなかったのだ。おかげで、ピンク・フロイドのデビュー・アルバム『The Piper At The Gates Of Dawn(夜明けの口笛吹き)』は、“少しねじれた奇妙なポップス”という印象を聴き手に与える程度の、中途半端な完成度で終わってしまったのである。
例えば、「Interstellar Overdrive(星空のドライブ)」というナンバーがある。イレギュラーなタッチのリフが印象的で、コンセプトもおもしろい。しかし、演奏が今一歩であるため、インプロビゼイションが白熱せず、不完全燃焼の状態のまま終わってしまうのである。おかげで聴き手は、熟していない果物を食べた後のような、物足りなさを感じてしまうのだ。
“おもしろい”が“凄い”へ熟成しなかったことが、初期ピンク・フロイドの致命傷になっていたのである。しかし、ピンク・フロイドのマネジメント側は、そのような状態を気にもとめずに、彼等をポップ・アイドルとして売り出すことに執心した。シド・バレットの、耽美的な美少年ぶりが災いしたのだ。ピンク・フロイドは、1967年10月から始まるアメリカ・ツアーを計画した。そして、悲劇はここから始まったのである。
最後に『web-magazine GYAN GYAN』で未掲載だった作品、
「“存在すること”の不安」をお届けしたいと思います。
これはメルマガ『文学メルマ』のために書き下ろした作品で、
同誌2002年6月25日号から7月17日号に掲載されました。
長い作品なので、4部に分けてお届けすることにします。
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1、ロジャー・ウォーターズの“宇宙”
2002年3月28日、ロジャー・ウォーターズは、東京国際フォーラムに“宇宙”を創造した。この場合の“宇宙”とは、文字通りの物理的な空間のことではなく、人間の内面に存在している精神世界を指している。彼は自己の中にある“宇宙”を、音と光と映像を融合させて、3時間という時空の中に出現させたのである。
ステージにおけるロジャーは、非常にリラックスしているように見えた。それは、かつて我々が目にした、脅迫観念におびえるナーバスなロジャーでも、傲慢な態度で独裁者としてふるまうロジャーでもなかった。彼は非常に冷静な態度で、自身が抱える精神世界のすべてを、聴衆の前にさらけ出したのである。バック・バンドは各曲のオリジナル・サウンドを再現することに専念し、新たな解釈を加えることは極力抑えられていた。
「達観したな…。」
私は、そんなロジャーが、表現者として一段高い境地に到達していることを感じた。修羅場のような創作活動の果てに、彼が辿り着いた境地は“自然体”。すべての事象をあるがままにとらえ、自然に沸き上がってくる創作の意欲に身をまかせるということだ。
「これから、何かを始めようとしているんだ…。」
ラストに披露した新曲には、現在のロジャーの姿が投影されていた。会場全体を包み込むような、慈愛の光に満ちたこのナンバーが、彼の新しい第一歩を象徴していたのである。
そんなロジャーを語る際に、無視することのできない存在がピンク・フロイドだ。
ロジャー・ウォーターズが1983年まで、ピンク・フロイドの中心的メンバーとして活躍していたことは周知の事実である。ピンク・フロイドは、ロック・シーンにおけるトップ・グループであり、プログレッシブ・ロックというジャンルの創始者だ。ロジャー・ウォーターズは、ピンク・フロイドの基本コンセプトを維持し、音楽ファンに発信し続けてきた。彼のこれまでの創作活動は、その大半をピンク・フロイドに捧げたと言っても過言ではあるまい。
そして、ピンク・フロイドにおけるロジャー・ウォーターズを語る際に、欠かすことができないキーワードが3つある。
まず、シド・バレット、
そして、『The Dark Side Of The Moon』、
最後に『The Wall』。
この3つのキーワードがロジャーの精神世界に及ぼした影響力の大きさは、東京国際フォーラムのステージからも、窺い知ることができたのである。
ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、ニック・メイスンが参加していたスクール・バンドとシド・バレットが出会ったのは、1965年のこと。彼等はまず“ピンク・フロイド・サウンド”と名乗り、その後グループ名を“ピンク・フロイド”に改めた。
“ピンク・フロイド”というグループ名は、シド・バレットが当時飼っていた2匹の猫、“ピンク”と“フロイド”から付けられたそうである。“ピンク”も“フロイド”も、ブルースマンのファーストネームだ。“ピンク”はピンク・アンダースン、“フロイド”はフロイド・カウンシル。
グループ名の由来からもわかる通り、初期のピンク・フロイドはシドのワンマン・バンドである。シド・バレットが、ピンク・フロイドの基本コンセプトを確立したのだ。そしてシドは、シュールな詩とサイケデリックな音のセンスによって、次第にカリスマ視されるようになったのである。
しかし、シドを含めたピンク・フロイドのメンバーは、音楽を表現するテクニックが稚拙過ぎて、カリスマの意識の中にある音を、100%表現することができなかったのだ。おかげで、ピンク・フロイドのデビュー・アルバム『The Piper At The Gates Of Dawn(夜明けの口笛吹き)』は、“少しねじれた奇妙なポップス”という印象を聴き手に与える程度の、中途半端な完成度で終わってしまったのである。
例えば、「Interstellar Overdrive(星空のドライブ)」というナンバーがある。イレギュラーなタッチのリフが印象的で、コンセプトもおもしろい。しかし、演奏が今一歩であるため、インプロビゼイションが白熱せず、不完全燃焼の状態のまま終わってしまうのである。おかげで聴き手は、熟していない果物を食べた後のような、物足りなさを感じてしまうのだ。
“おもしろい”が“凄い”へ熟成しなかったことが、初期ピンク・フロイドの致命傷になっていたのである。しかし、ピンク・フロイドのマネジメント側は、そのような状態を気にもとめずに、彼等をポップ・アイドルとして売り出すことに執心した。シド・バレットの、耽美的な美少年ぶりが災いしたのだ。ピンク・フロイドは、1967年10月から始まるアメリカ・ツアーを計画した。そして、悲劇はここから始まったのである。
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