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「web-magazine GYAN GYAN」では、第三者的な視点でロックを検証してきましたが、当サイトではプライベートな感覚で、より身近にロックを語ってみたいと思います。
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  ★ プロフィール
HN:
matsuZACK
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/02/15
自己紹介:
matsuZACKです。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
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★2013/08/04 (Sun)
先日お話したように、
私が手塚治虫先生の作品で、
もっとも評価しているのが、
「どろろ」です。

まずは、
この作品を知らない方のために、
簡単にストーリーを紹介します。

---------------------------------------------

時は戦国の世‥
天下取りを狙う、
醍醐景光は、
願いを叶えるために、
地獄堂の48の魔神たちと契約をする。

48の魔神たちはその代償として、
景光の子の身体を求める。
こうして生まれた景光の子は、
生まれながらに48ヶ所を失っており、
景光はその子を捨ててしまう。

捨てられた子は、
寿海という医者に拾われ育てられる。
寿海はこの子に百鬼丸という名を与え、
失っている身体の各部を作りもので補ってやる。

成長した百鬼丸は旅に出て、
自分の身体を奪った魔神を倒せば、
失われた部分が戻ってくることを知る。

百鬼丸は、
旅の途中で知り合った野盗の子、
どろろと共に、
魔神を倒す旅を続ける。

------------------------------------------------

こんな感じですね。


連載が始まったのが1967年。
ちょうどサイボーグ009と同時期。
しかし、
ストーリー全体を支配する、
陰惨で救いようのない雰囲気から、
読者の評判はイマイチで、
連載は早期に打ち切り。

並行して放映された、
テレビアニメも同様で、
しかもこちらは、
身体障害者に配慮して、
地上波では一度も再放送されず、
という状況。

私は小学校低学年の頃に、
まずこのテレビアニメを見て、
そのあまりのおもしろさに感動し、
コミックスを探したので、
非常に残念な限りです。

百鬼丸の腕がとれると、
中に刀が仕込んであったり、
魔神を倒すたひに、
身体が戻ってくるという表現がNGだっただけでなく、
百鬼丸に負けない、
どろろの悲惨な生い立ちが問題になったようです。

しかし‥

荒唐無稽でありながら、
ストーリーの完成度が高いので、
マンガとはいえ、
文学作品のような余韻を残す作品です。

とにかくおもしろいので、
未読の方はぜひ、
体験してみてください。
(ちなみに、最近リメイクされた映画はカンペキNGです)


作品に流れているテーマは、
人の心に棲む悪‥
それから、
運命に負けないでたくましく、
前向きに生きることのすばらしさ、
といったところで、
一連の石ノ森章太郎作品と同じような
問題意識が感じられます。

半村良先生が
「石の血脈」を発表したのが1971年、
代表作「妖星伝」の連載が始まり、
いわゆる伝奇SFというジャンルが確立されたのが1975年‥

そう考えると、
「どろろ」の1967年は、
いかにも早過ぎた感があり、
それゆえに理解されなかった部分があると思われます。

とはいえ、
「どろろ」は間違いなく、
伝奇SFの先駆的な作品であり、
ダークヒーローの元祖でもあったわけです。

この後、
石ノ森章太郎先生が「仮面ライダー」を発表し、
手塚治虫先生がそこへ羨望の眼差しを送ったというのは、
前回お話しした通りですが、
その原点は「どろろ」にあった、
と言っても過言ではないでしよう。

それほどの傑作なのでした。

それにしても、
最近になって、
にわかに、
このへんの作品を集め始めたのですが、
コミックスは、
差別問題などで、
いろいろな団体に配慮しているせいか、
少年時代に読んだオリジナルと、
多少表現が変わっている場面が散見されます。

作品の持つメッセージが大切なわけで、
枝葉末節の表現をそれほど気にしなくてもよいと思うのですが、
いかがなものでしょう?

少なくとも、
オリジナル作品が、
それで当時の規制をクリアしていたのであれば。
そのままでいいのに、
などと思ったりします。

そもそも、
表現の自由って、
どういうことだろう?

「どろろ」について考えるたびに、
それを痛感します。


↓百鬼丸(左)とどろろ(右)
最終章でどろろは女の子であるという事実が判明する

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★ ILLUSTRATION BY nyao