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「web-magazine GYAN GYAN」では、第三者的な視点でロックを検証してきましたが、当サイトではプライベートな感覚で、より身近にロックを語ってみたいと思います。
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  ★ プロフィール
HN:
matsuZACK
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/02/15
自己紹介:
matsuZACKです。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
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★2012/03/11 (Sun)
3月11日がやってきました。

1年前を思い出してみましょう。

あの日、
私は午前の経営会議で重要な答申を済ませ、
昼食の後、
事務処理をしていました。

午前中に重要な仕事が片付き、
しかも金曜日の午後ということもあり、
少しゆったりとした、
緊張の緩んだ時間帯でした。

今夜はとくに予定もないし、
何をしようかな?…
そんななにげない日常の、
ある瞬間に、
東日本大震災は発生したのです。

最初は、
ちょっと大きな地震だな…、
ぐらいの感覚で、
周囲の女子社員に
「大丈夫だよ」と言っていたのですが、
次の瞬間、
足元をつかまれて振り回されるような、
激しい揺れがやって来ました。

「!」
これは、
かつて経験したことのない、
大きな地震だ。

そう思った私は、
窓際の自分のデスクから、
オフィスの中央付近へ移動しました。
そのままいたら、
外へ放り出されるような気がしたのです。

「長いっ!」
激しい揺れはかなりの時間続きました。

机の下に非難した女子社員の悲鳴が、
泣き声へ変わり始めました。
「イヤっ、何これ?」
私はそれに対して、
「落ち着け、あわてるな」
と言うのが精一杯で、
自分の頭の中も真っ白になっていくのを感じました。

揺れがおさまって、
周囲がざわめき始めると、
震源地は三陸沖であるという速報が入り、
一瞬妻の実家が脳裏をよぎりましたが…、
当然のごとく携帯電話はつながらず、
私は自宅へ電話を入れました。
今度は、
年老いた自分の両親が心配になったのです。

携帯電話は頼りにならないと思い、
一般回線へかけてみると、
これは一発でつながりました。
すると…、
たまたま大学の卒業式間近だった、
私の長男が家にいたということがわかり、
とりあえずひと安心。

同じように勤務中だった妻と、
高校にいた長女からも連絡があったということで、
こちらもひと安心。
やれやれと思っていたら、
ビルの管理会社から、
この建物は古く倒壊の恐れがあるので、
広域避難場所へ移動するようにという指示。

私はまずトイレにいき、
そして会社から支給されていた、
緊急用のリュックを背負い、
部下を誘導しながら外へ出ました。
「まさか、このリュックを使う日が来るとは…」
リュックの中には、
水と食料、そしてアルミのブランケットが入っています。

外へ出て、
少し空間のある通りに出た瞬間、
茨城沖で地震が発生し(あとで聞けば3発目だったとか)、
周囲のビルがユラユラと揺れ、
ガラスが激しく音を立て始めました…。
「建物から離れて、道路の真ん中へ移動しろっ」と叫びながら、
私はうっすらと、
もしかすると今日ここで死ぬかも…と思いました。

数分後に揺れがおさまると、
私たちは広域避難場所に指定されている、
港区の小学校跡地へ移動しましたが、
移動してすぐに、
津波の恐れがあるから、
もう一度ビルへ戻るよう指示を受けました。

おそらく…、
三陸から宮城、福島、茨城、千葉の沿岸が津波に襲われたのは、
この時間帯。
もし、
津波が東京湾までやって来ていたら、
あのような海抜の低い避難場所にいた私たちは、
間違いなく命を落としていたことでしょう。

その後、
ビルへ戻り、
私が出した指示は、
「無理して帰宅するな。
ここで無理をして後で悔いることになりたくなければ、ここにいなさい。
ここにいれば安全だから。」
でした。
都心に住んでいない、
独身の女子社員のほとんどは、
オフィスで一夜を明かすことになったのです。

あの夜の不気味さは、
一生忘れられないでしょう。
絶え間ない余震、
とくに夜中に発生した新潟・長野県境付近の大地震、
沿岸部の大火災、
仙台の海岸に多数の遺体が漂着しているという報道…。
本当に日本が沈没してしまうのではないだろうか、
と思った夜でした。

翌朝になり、
徐々に鉄道が運転再開をしているニュースを聞き、
全員に帰宅の指示を出し、
私は途中で、
高校の近くで友人宅に泊まっていた長女を拾って、
歩いたり、
電車に乗ったりを繰り返しながら、
およそ半日かけて自宅に戻りました。

長女は私の姿を見るなり飛びついてきて、
「こわかった、こわかったよ」を連発し、
帰宅中はずっと、
私と手をつないでいました。

その後、
鉄道が満足に動かず、
スーパーやコンビニの棚に多数の欠品が生じ、
ガソリンを入れることができず、
計画停電、節電…、
それが当たり前になり、
加えて、
放射能におびえる日々が続きました。

それも日常、
今も日常…、
当たり前になれば、
すべてが日常になってしまいます。

しかし、
この記憶を忘れてはいけないと思います。

復興については、
いろいろと騒がれていますが、
自分達にできないことを騒いでみても意味がないし、
ましてや、
綺麗ごとやお題目ばかりを連呼しても仕方がないと思います。

私は、
自分が体験した、
あの日のできごと、
感じたことを忘れないようにすることが、
ささやかながら、
生き残った者にできる、
せめてものことだと思っています。

今日現在、
亡くなられた方 15,854人、
行方不明の方   3,155人、
私と同じような日常を送っていた人たちが、
たまたま、
住んでいた場所の違いで、
津波に呑まれ、
大切な命を落としてしまったという事実。

私と同じように、
普通の金曜日の夜を考えていた人たち…、
デートの約束をしていたり、
家に帰ったらお母さんに謝ろうと思っていたり、
その日あったできごとを家族に話そうと思っていたり…、
2万人近い人たちのそれがすべて、
あの時間帯で終わってしまった。
たくさんの未来が、
可能性が、
あの時間帯で終わってしまった。
そして…、
その数時間後に、
物言わない姿で海岸に流れついてきた…、
あまりにも凄惨な事実。

最近では、
被災された現地の方々の中から、
絆とか、
復興支援とか、
がんばれとか…、
そういう言葉を聞きたくない、
という意見が聞かれるようになってきました。

また、
ボランティアや国を頼っていてはいけない。
自分達の力でなんとかしなければ、
という意見も聞かれるようになってきました。

どちらの言葉も、
今回の災害の桁外れのダメージを物語っていると思います。
しかし、
私が昨年5月に、
津波で被害を受けた妻の実家の庭で撮影した、
水仙の姿を見てください。
植物は何も考えずに、
生の営みを続け、
季節がくれば花を咲かせます。



大切なのは、
とにかく生きること…、
生きて、
自分がやるべきことを、
しっかりやること…、
ただそれに尽きるのではないでしょうか?

瓦礫に凛と咲いた、
水仙の姿に教えられる。
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★ ILLUSTRATION BY nyao