「web-magazine GYAN GYAN」では、第三者的な視点でロックを検証してきましたが、当サイトではプライベートな感覚で、より身近にロックを語ってみたいと思います。
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★ プロフィール
HN:
matsuZACK
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/02/15
自己紹介:
matsuZACKです。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
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★2011/05/08 (Sun)
(画像はクリックすると拡大されます)
5月3日(火)の午後、
運転再開して間もない東北新幹線を利用して、
私は岩手県宮古市を目指しました。
運転再開したとはいえ、
福島から先の区間を徐行しているので、
盛岡までは、
通常より1時間30分も余分にかかります。
徐行区間に入ると、
震災で瓦が落ちたのか、
屋根にブルーシートをかぶせた家が目立ち、
仙台駅近くの、
旧国鉄長町貨物駅跡地には、
完成したばかりの仮設住宅が並んでいました。
仙台駅はまだ足場を組んだままで、
とりあえず新幹線を動かしたかったという、
現地の切羽詰まった思いが感じられます。
街全体が、
なんとも言えない緊迫感に包まれている、
そんな印象でした、
盛岡は、
屋根のブルーシートもあまりなく、
少しだけ気持ちがホッとしたのですが、
盛岡から三陸へ出るために乗った、
国道106号線の急行バスが
休憩のために立ち寄ったパーキングエリアでは、
自衛隊の車両がたくさん並んでいて、
ふたたび緊迫感が迫ってきました。
だんだん被災地に近づいているんだ…。
バスは2時間ちょっとの道のりを走破し、
終着のJR宮古駅前に着きました。
バスの路線から見える、
山側の景色はいつも通りで、
また、
宮古駅周辺は、
綺麗に片付けられていて、
人々の様子もとくに変わりはなく、
震災の面影はあまり感じられませんでした。
ただ…、
そこから海へ向かうにしたがって、
ところどころ、
津波を受けたのか、
1階がそっくりなくなっている家屋が目立つようになります。
見覚えのある建物の変わり果てた姿…。
そして、
それらの家屋の壁には、
住民が書いた「解体希望」の4文字と、
それを認定した役所の担当者による、
「○○地区-No○○」という、
おそらく処理の順番を表記した文字が並んでいます。
宮古の市街地には、
とりあえず無事だった家屋と、
1階部分を中心に大破している家屋が並んでおり、
現地の方によれば、
津波で、
道路が水路と化したため、
家屋と道路の位置関係によって、
被害の程度に差が生じているということでした。
天国と地獄が隣り合わせの光景…。
それでも、
市の中心部はまだいい方で、
少し周辺地に行ってみようということになり、
三陸沿岸を走る、
国道45号線を使って、
南北70kmにわたる範囲を訪れてみました。
宮古から北の方角、
田老、小本、田野畑、普代と言った各地区は、
ほぼ壊滅状態。
壊滅状態などと書くと、
やけにあっさりしていますが、
文字通り、
何もない状態、
なのです。
かなりの人数の自衛隊を見かけたので、
大雑把な整理は済んでいるのでしょう。
とにかく…、
何もない。
この画像は、
国道45号線を北に向かって、
本来であれば、
左に田老の駅があり、
駅前商店街だった場所。
商店や住宅が並び、
夏場などはたいへん賑わう場所です。
それが、
この有様…。
これは、
鵜の巣断崖という場所の岬です。
画像ではわかりにくいのですが、
山頂近くの部分まで、
葉の色は黄色くなっています。
これは、
塩水をかぶったからだそうで、
つまり、
あの日は…、
おそろしいことに、
この岬がすっぽりと水没したということです。
それを裏付けるかのように、
この下の湾に川が注いでいて、
右奥ぐらいの場所に…、
そうですね、
標高およそ20〜30メートルあたりに、
山間の集落があったのですが、
すべて津波にさらわれており、
何も残っていませんでした。
この高さまで、
川を逆流した津波が上がってきたわけです。
信じられないことですが、
目の前の光景がそれを物語っていました。
信じられない…。
さすがに、全身に寒気が走りました。
こちらは、
宮古漁港あたりの景色ですが、
これも画像ではわかりにくいのですが、
本来であれば、
桟橋があって、
その下あたりに海面があるはずなのに、
まるで、
池か湖のように、
すぐそこまで水が来ていました。
つまり、
地盤が1〜3m程度、
沈下したおかげだそうで、
たしかに、
地形が変わってしまったのです。
さて、
今度は、
国道45号線を南に下り、
宮古湾をはさんだ重茂半島側の、
赤前という地区…、
ここには市の運動公園があるのですが…、
こちらを訪れてみました。
この地区は、
まだ住宅街の瓦礫が撤去されておらず、
これこそ…、
地獄の光景でした…。
運動公園はいまや、
廃車と瓦礫の集積所と化しています。
私はこの場所が好きで、
昨年の夏にもここを訪れているのですが、
(この日の記事)
ブログで公開した画像と同じ場所の現在の姿です。
この防潮堤の上にあるフェンスは、
津波によってなぎ倒されているのですが、
15〜20mの高さにあります。
本当にあの日は、
信じられないことが起こったのです。
海はいつも通りの、
穏やかな表情を見せていましたが、
私は妙に、
その美しい光景に腹が立ちました。
オマエら、いったい何をしたんだ?
地震による直接の被害は、
どこに行っても聞こえてこなかったぞ。
オマエらが何かしなかったら、
こんな地獄は出現しなかったはずだ…。
オマエらが…。
私は、
このような光景を目の前にして、
復興とか、
支援とかいう言葉が、
すっかり無意味に思えるようになりました。
そんな生易しいレベルの話ではない…。
後片付けすら終わっていないのだから。
今、
現地に必要なのは、
お金と、
そしてマンパワー。
ボランティアとか義援金とか、
そんなレベルではぜんぜん足りない。
比較的交通の便がいい地域や、
名前の知れた市町村には、
世間の目がいっていますが、
それ以外の大半の地域は、
いまだ手つかずの状態であるのが、
真実。
そして、
そこにたくさんの人々が生活しているのが、
真実。
今、
この瞬間も、
生活をしているのが、
真実。
国が、
自治体が、
しっかりと財源を確保して、
建設会社などのプロを大量投入しなければ、
いつまで経っても状況は改善されないことを痛感しました。
自分の職業でできること。
つまりプロの仕事で、
現地を支えること。
そこから考えないと、
何も始まらないのではないでしょうか?
鉄橋が流れてしまったJR山田線の閉伊川橋梁。
船が打ち上げられたままの住宅街。
-----------------------------------------------------------------------------------
さて、
今回のレポートで、
震災に関する話題に、
ひと区切りをつけようと思います。
これからは、
日常の生活を通して、
今回の悲惨なできごとに立ち向かいたい、
そんな気持ちでいっぱいです。
現地が元通りになるまでには、
10年、
いや20年ぐらいかかるかもしれませんね。
いやいや…、
失われた命は、
元には戻りませんよ。
5月3日(火)の午後、
運転再開して間もない東北新幹線を利用して、
私は岩手県宮古市を目指しました。
運転再開したとはいえ、
福島から先の区間を徐行しているので、
盛岡までは、
通常より1時間30分も余分にかかります。
徐行区間に入ると、
震災で瓦が落ちたのか、
屋根にブルーシートをかぶせた家が目立ち、
仙台駅近くの、
旧国鉄長町貨物駅跡地には、
完成したばかりの仮設住宅が並んでいました。
仙台駅はまだ足場を組んだままで、
とりあえず新幹線を動かしたかったという、
現地の切羽詰まった思いが感じられます。
街全体が、
なんとも言えない緊迫感に包まれている、
そんな印象でした、
盛岡は、
屋根のブルーシートもあまりなく、
少しだけ気持ちがホッとしたのですが、
盛岡から三陸へ出るために乗った、
国道106号線の急行バスが
休憩のために立ち寄ったパーキングエリアでは、
自衛隊の車両がたくさん並んでいて、
ふたたび緊迫感が迫ってきました。
だんだん被災地に近づいているんだ…。
バスは2時間ちょっとの道のりを走破し、
終着のJR宮古駅前に着きました。
バスの路線から見える、
山側の景色はいつも通りで、
また、
宮古駅周辺は、
綺麗に片付けられていて、
人々の様子もとくに変わりはなく、
震災の面影はあまり感じられませんでした。
ただ…、
そこから海へ向かうにしたがって、
ところどころ、
津波を受けたのか、
1階がそっくりなくなっている家屋が目立つようになります。
見覚えのある建物の変わり果てた姿…。
そして、
それらの家屋の壁には、
住民が書いた「解体希望」の4文字と、
それを認定した役所の担当者による、
「○○地区-No○○」という、
おそらく処理の順番を表記した文字が並んでいます。
宮古の市街地には、
とりあえず無事だった家屋と、
1階部分を中心に大破している家屋が並んでおり、
現地の方によれば、
津波で、
道路が水路と化したため、
家屋と道路の位置関係によって、
被害の程度に差が生じているということでした。
天国と地獄が隣り合わせの光景…。
それでも、
市の中心部はまだいい方で、
少し周辺地に行ってみようということになり、
三陸沿岸を走る、
国道45号線を使って、
南北70kmにわたる範囲を訪れてみました。
宮古から北の方角、
田老、小本、田野畑、普代と言った各地区は、
ほぼ壊滅状態。
壊滅状態などと書くと、
やけにあっさりしていますが、
文字通り、
何もない状態、
なのです。
かなりの人数の自衛隊を見かけたので、
大雑把な整理は済んでいるのでしょう。
とにかく…、
何もない。
この画像は、
国道45号線を北に向かって、
本来であれば、
左に田老の駅があり、
駅前商店街だった場所。
商店や住宅が並び、
夏場などはたいへん賑わう場所です。
それが、
この有様…。
これは、
鵜の巣断崖という場所の岬です。
画像ではわかりにくいのですが、
山頂近くの部分まで、
葉の色は黄色くなっています。
これは、
塩水をかぶったからだそうで、
つまり、
あの日は…、
おそろしいことに、
この岬がすっぽりと水没したということです。
それを裏付けるかのように、
この下の湾に川が注いでいて、
右奥ぐらいの場所に…、
そうですね、
標高およそ20〜30メートルあたりに、
山間の集落があったのですが、
すべて津波にさらわれており、
何も残っていませんでした。
この高さまで、
川を逆流した津波が上がってきたわけです。
信じられないことですが、
目の前の光景がそれを物語っていました。
信じられない…。
さすがに、全身に寒気が走りました。
こちらは、
宮古漁港あたりの景色ですが、
これも画像ではわかりにくいのですが、
本来であれば、
桟橋があって、
その下あたりに海面があるはずなのに、
まるで、
池か湖のように、
すぐそこまで水が来ていました。
つまり、
地盤が1〜3m程度、
沈下したおかげだそうで、
たしかに、
地形が変わってしまったのです。
さて、
今度は、
国道45号線を南に下り、
宮古湾をはさんだ重茂半島側の、
赤前という地区…、
ここには市の運動公園があるのですが…、
こちらを訪れてみました。
この地区は、
まだ住宅街の瓦礫が撤去されておらず、
これこそ…、
地獄の光景でした…。
運動公園はいまや、
廃車と瓦礫の集積所と化しています。
私はこの場所が好きで、
昨年の夏にもここを訪れているのですが、
(この日の記事)
ブログで公開した画像と同じ場所の現在の姿です。
この防潮堤の上にあるフェンスは、
津波によってなぎ倒されているのですが、
15〜20mの高さにあります。
本当にあの日は、
信じられないことが起こったのです。
海はいつも通りの、
穏やかな表情を見せていましたが、
私は妙に、
その美しい光景に腹が立ちました。
オマエら、いったい何をしたんだ?
地震による直接の被害は、
どこに行っても聞こえてこなかったぞ。
オマエらが何かしなかったら、
こんな地獄は出現しなかったはずだ…。
オマエらが…。
私は、
このような光景を目の前にして、
復興とか、
支援とかいう言葉が、
すっかり無意味に思えるようになりました。
そんな生易しいレベルの話ではない…。
後片付けすら終わっていないのだから。
今、
現地に必要なのは、
お金と、
そしてマンパワー。
ボランティアとか義援金とか、
そんなレベルではぜんぜん足りない。
比較的交通の便がいい地域や、
名前の知れた市町村には、
世間の目がいっていますが、
それ以外の大半の地域は、
いまだ手つかずの状態であるのが、
真実。
そして、
そこにたくさんの人々が生活しているのが、
真実。
今、
この瞬間も、
生活をしているのが、
真実。
国が、
自治体が、
しっかりと財源を確保して、
建設会社などのプロを大量投入しなければ、
いつまで経っても状況は改善されないことを痛感しました。
自分の職業でできること。
つまりプロの仕事で、
現地を支えること。
そこから考えないと、
何も始まらないのではないでしょうか?
鉄橋が流れてしまったJR山田線の閉伊川橋梁。
船が打ち上げられたままの住宅街。
-----------------------------------------------------------------------------------
さて、
今回のレポートで、
震災に関する話題に、
ひと区切りをつけようと思います。
これからは、
日常の生活を通して、
今回の悲惨なできごとに立ち向かいたい、
そんな気持ちでいっぱいです。
現地が元通りになるまでには、
10年、
いや20年ぐらいかかるかもしれませんね。
いやいや…、
失われた命は、
元には戻りませんよ。
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