「web-magazine GYAN GYAN」では、第三者的な視点でロックを検証してきましたが、当サイトではプライベートな感覚で、より身近にロックを語ってみたいと思います。
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★ プロフィール
HN:
matsuZACK
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/02/15
自己紹介:
matsuZACKです。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
音楽評論家や文筆業を目指したり、
いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
どうやらなすがままに、
フツーの人におさまりつつあります。
“下天のうちをくらぶれば~”の年齢に到達してしまいました。
ミュージシャンを目指したり、
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いろいろと人生の奔流に抵抗してきましたが、
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★2008/09/10 (Wed)
2、シド・バレットの遺産
カリスマとして賞賛されるが、満足な結果を残せない自分との葛藤。グループの意向をまったく無視した、ミスマッチなブッキング。シド・バレットは次第に、演奏することに対して、強力なストレスを感じるようになっていった。そして、ストレスのはけ口をドラッグに求めたのである。ジミ・ヘンドリックスやブライアン・ジョーンズと同様の悲劇が、ここでも起こりつつあったのだ。
当時のアメリカは、ドラッグ・カルチャーの真っ只中。ありとあらゆる種類のドラッグが、容易に入手できたといわれている。しかし、耐性のないイギリス人がイキナリ手を出すには、少しばかり刺激が強過ぎたようだ。それでなくても繊細な神経の持ち主だったシド・バレットは、少しずつ精神に変調をきたし始めてしまったのである。
グループがツアーの続行を不可能と判断するまでに、それほどの時間はかからなかった。ピンク・フロイドは、1967年のアメリカ・ツアーをスケジュール半ばで中止。この時点で、すでにシド・バレットの状態は、回復不可能なレベルまで悪化していたといわれている。イギリスに帰国したピンク・フロイドは、フランスでファッション・モデルをやっていたデイヴ・ギルモアを加入させ再出発を図った。そして、シド・バレットは、1968年3月、正式にグループから脱退。2枚のソロ・アルバムを発表した後、音楽界から完全に姿を消してしまった。
そして、彼の精神状態は2度と回復することがなかったのである。しかし多くのファンは、シドが去ったグループに対して、彼の幻影を求め続けたのだ。
この時点で、ピンク・フロイドというグループは、シド・バレットの遺産を継承しなければならない宿命を背負わされてしまったのである。
再出発を図ったピンク・フロイドは、1968年3月『A Sauceful Of Secrets(神秘)』を発表。新たに加入したデイヴ・ギルモアは、“きちんとギターを弾くことができる”ギタリストであり、これ以降グループ全体のテクニック向上を牽引していくことになる。映画のサントラ『More(モア)』をはさんだ1969年10月には、2枚組の大作『Ummagumma(ウマグマ)』を発表。ライブ録音のA面では、シド・バレットの作品を見事に再生させている。グループの音楽的な才能が、開花し始めたのだ。
そして1970年10月、『Atom Heart Mother(原子心母)』を発表。全英チャート1位に輝いたこのアルバムをきっかけとして、ピンク・フロイドの名前は一躍メジャーな存在になるのである。ドラッグ・カルチャーから生まれたサイケデリック・ミュージックは、より芸術性を高めたプログレッシブ・ロック(前衛的なロックを意味する)へと発展し、ピンク・フロイドはプログレッシブ・ロックをリードする存在になったのである。
『Atom Heart Mother(原子心母)』は、オーケストラを導入しA面すべてを使ったタイトル曲が話題になったが、メンバーそれぞれが曲を提供したB面の小曲群にも注目すべき点が多いのだ。ロジャー・ウォーターズ作の「If(イフ)」、リック・ライト作の「Summer '68(サマー68)」、デイヴ・ギルモア作の「Fat Old Sun(デブでよろよろの太陽)」。
中でも、ロジャー・ウォーターズ作の「If(イフ)」は、重要なメッセージを発信している。
もし、僕がひとりぼっちだったなら、きっと泣いてしまっただろう
でももし、君といっしょだったなら、泣かずに家に帰っただろう
でももし、僕が気が狂ってしまっても、君はまだ僕を仲間に入れてくれるだろうか
シド・バレットは、その豊かな才能ゆえに、“彼岸の世界の住人”になってしまってからも、多くの人々から慕われている。ロジャー・ウォーターズは、それを自分に当てはめてみたのである。自分が“彼岸の世界の住人”になったとしたら、シド・バレットと同じように多くの人々から慕われ続けるだろうか?自分にシド・バレットと同じレベルの才能があるのだろうか?
当時のロジャー・ウォーターズには、まったく自信がなかったのである。彼は、アコースティック・ギターの弾き語りによるソフトなこの曲で、その心境を淡々と語った。
ロジャー・ウォーターズは、若くして“彼岸の世界の住人”になってしまったシド・バレットの才能を惜しみ、哀惜の念に耐えられなかったと言われているが、そうではないだろう。むしろ、若くして“彼岸の世界の住人”になってしまったシド・バレットに対して、憧憬のまなざしを送っていたのである。
カリスマとして賞賛されるが、満足な結果を残せない自分との葛藤。グループの意向をまったく無視した、ミスマッチなブッキング。シド・バレットは次第に、演奏することに対して、強力なストレスを感じるようになっていった。そして、ストレスのはけ口をドラッグに求めたのである。ジミ・ヘンドリックスやブライアン・ジョーンズと同様の悲劇が、ここでも起こりつつあったのだ。
当時のアメリカは、ドラッグ・カルチャーの真っ只中。ありとあらゆる種類のドラッグが、容易に入手できたといわれている。しかし、耐性のないイギリス人がイキナリ手を出すには、少しばかり刺激が強過ぎたようだ。それでなくても繊細な神経の持ち主だったシド・バレットは、少しずつ精神に変調をきたし始めてしまったのである。
グループがツアーの続行を不可能と判断するまでに、それほどの時間はかからなかった。ピンク・フロイドは、1967年のアメリカ・ツアーをスケジュール半ばで中止。この時点で、すでにシド・バレットの状態は、回復不可能なレベルまで悪化していたといわれている。イギリスに帰国したピンク・フロイドは、フランスでファッション・モデルをやっていたデイヴ・ギルモアを加入させ再出発を図った。そして、シド・バレットは、1968年3月、正式にグループから脱退。2枚のソロ・アルバムを発表した後、音楽界から完全に姿を消してしまった。
そして、彼の精神状態は2度と回復することがなかったのである。しかし多くのファンは、シドが去ったグループに対して、彼の幻影を求め続けたのだ。
この時点で、ピンク・フロイドというグループは、シド・バレットの遺産を継承しなければならない宿命を背負わされてしまったのである。
再出発を図ったピンク・フロイドは、1968年3月『A Sauceful Of Secrets(神秘)』を発表。新たに加入したデイヴ・ギルモアは、“きちんとギターを弾くことができる”ギタリストであり、これ以降グループ全体のテクニック向上を牽引していくことになる。映画のサントラ『More(モア)』をはさんだ1969年10月には、2枚組の大作『Ummagumma(ウマグマ)』を発表。ライブ録音のA面では、シド・バレットの作品を見事に再生させている。グループの音楽的な才能が、開花し始めたのだ。
そして1970年10月、『Atom Heart Mother(原子心母)』を発表。全英チャート1位に輝いたこのアルバムをきっかけとして、ピンク・フロイドの名前は一躍メジャーな存在になるのである。ドラッグ・カルチャーから生まれたサイケデリック・ミュージックは、より芸術性を高めたプログレッシブ・ロック(前衛的なロックを意味する)へと発展し、ピンク・フロイドはプログレッシブ・ロックをリードする存在になったのである。
『Atom Heart Mother(原子心母)』は、オーケストラを導入しA面すべてを使ったタイトル曲が話題になったが、メンバーそれぞれが曲を提供したB面の小曲群にも注目すべき点が多いのだ。ロジャー・ウォーターズ作の「If(イフ)」、リック・ライト作の「Summer '68(サマー68)」、デイヴ・ギルモア作の「Fat Old Sun(デブでよろよろの太陽)」。
中でも、ロジャー・ウォーターズ作の「If(イフ)」は、重要なメッセージを発信している。
もし、僕がひとりぼっちだったなら、きっと泣いてしまっただろう
でももし、君といっしょだったなら、泣かずに家に帰っただろう
でももし、僕が気が狂ってしまっても、君はまだ僕を仲間に入れてくれるだろうか
シド・バレットは、その豊かな才能ゆえに、“彼岸の世界の住人”になってしまってからも、多くの人々から慕われている。ロジャー・ウォーターズは、それを自分に当てはめてみたのである。自分が“彼岸の世界の住人”になったとしたら、シド・バレットと同じように多くの人々から慕われ続けるだろうか?自分にシド・バレットと同じレベルの才能があるのだろうか?
当時のロジャー・ウォーターズには、まったく自信がなかったのである。彼は、アコースティック・ギターの弾き語りによるソフトなこの曲で、その心境を淡々と語った。
ロジャー・ウォーターズは、若くして“彼岸の世界の住人”になってしまったシド・バレットの才能を惜しみ、哀惜の念に耐えられなかったと言われているが、そうではないだろう。むしろ、若くして“彼岸の世界の住人”になってしまったシド・バレットに対して、憧憬のまなざしを送っていたのである。
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★2008/09/07 (Sun)
7回にわたってプログレッシブ・ロックを特集しましたが、
最後に『web-magazine GYAN GYAN』で未掲載だった作品、
「“存在すること”の不安」をお届けしたいと思います。
これはメルマガ『文学メルマ』のために書き下ろした作品で、
同誌2002年6月25日号から7月17日号に掲載されました。
長い作品なので、4部に分けてお届けすることにします。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1、ロジャー・ウォーターズの“宇宙”
2002年3月28日、ロジャー・ウォーターズは、東京国際フォーラムに“宇宙”を創造した。この場合の“宇宙”とは、文字通りの物理的な空間のことではなく、人間の内面に存在している精神世界を指している。彼は自己の中にある“宇宙”を、音と光と映像を融合させて、3時間という時空の中に出現させたのである。
ステージにおけるロジャーは、非常にリラックスしているように見えた。それは、かつて我々が目にした、脅迫観念におびえるナーバスなロジャーでも、傲慢な態度で独裁者としてふるまうロジャーでもなかった。彼は非常に冷静な態度で、自身が抱える精神世界のすべてを、聴衆の前にさらけ出したのである。バック・バンドは各曲のオリジナル・サウンドを再現することに専念し、新たな解釈を加えることは極力抑えられていた。
「達観したな…。」
私は、そんなロジャーが、表現者として一段高い境地に到達していることを感じた。修羅場のような創作活動の果てに、彼が辿り着いた境地は“自然体”。すべての事象をあるがままにとらえ、自然に沸き上がってくる創作の意欲に身をまかせるということだ。
「これから、何かを始めようとしているんだ…。」
ラストに披露した新曲には、現在のロジャーの姿が投影されていた。会場全体を包み込むような、慈愛の光に満ちたこのナンバーが、彼の新しい第一歩を象徴していたのである。
そんなロジャーを語る際に、無視することのできない存在がピンク・フロイドだ。
ロジャー・ウォーターズが1983年まで、ピンク・フロイドの中心的メンバーとして活躍していたことは周知の事実である。ピンク・フロイドは、ロック・シーンにおけるトップ・グループであり、プログレッシブ・ロックというジャンルの創始者だ。ロジャー・ウォーターズは、ピンク・フロイドの基本コンセプトを維持し、音楽ファンに発信し続けてきた。彼のこれまでの創作活動は、その大半をピンク・フロイドに捧げたと言っても過言ではあるまい。
そして、ピンク・フロイドにおけるロジャー・ウォーターズを語る際に、欠かすことができないキーワードが3つある。
まず、シド・バレット、
そして、『The Dark Side Of The Moon』、
最後に『The Wall』。
この3つのキーワードがロジャーの精神世界に及ぼした影響力の大きさは、東京国際フォーラムのステージからも、窺い知ることができたのである。
ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、ニック・メイスンが参加していたスクール・バンドとシド・バレットが出会ったのは、1965年のこと。彼等はまず“ピンク・フロイド・サウンド”と名乗り、その後グループ名を“ピンク・フロイド”に改めた。
“ピンク・フロイド”というグループ名は、シド・バレットが当時飼っていた2匹の猫、“ピンク”と“フロイド”から付けられたそうである。“ピンク”も“フロイド”も、ブルースマンのファーストネームだ。“ピンク”はピンク・アンダースン、“フロイド”はフロイド・カウンシル。
グループ名の由来からもわかる通り、初期のピンク・フロイドはシドのワンマン・バンドである。シド・バレットが、ピンク・フロイドの基本コンセプトを確立したのだ。そしてシドは、シュールな詩とサイケデリックな音のセンスによって、次第にカリスマ視されるようになったのである。
しかし、シドを含めたピンク・フロイドのメンバーは、音楽を表現するテクニックが稚拙過ぎて、カリスマの意識の中にある音を、100%表現することができなかったのだ。おかげで、ピンク・フロイドのデビュー・アルバム『The Piper At The Gates Of Dawn(夜明けの口笛吹き)』は、“少しねじれた奇妙なポップス”という印象を聴き手に与える程度の、中途半端な完成度で終わってしまったのである。
例えば、「Interstellar Overdrive(星空のドライブ)」というナンバーがある。イレギュラーなタッチのリフが印象的で、コンセプトもおもしろい。しかし、演奏が今一歩であるため、インプロビゼイションが白熱せず、不完全燃焼の状態のまま終わってしまうのである。おかげで聴き手は、熟していない果物を食べた後のような、物足りなさを感じてしまうのだ。
“おもしろい”が“凄い”へ熟成しなかったことが、初期ピンク・フロイドの致命傷になっていたのである。しかし、ピンク・フロイドのマネジメント側は、そのような状態を気にもとめずに、彼等をポップ・アイドルとして売り出すことに執心した。シド・バレットの、耽美的な美少年ぶりが災いしたのだ。ピンク・フロイドは、1967年10月から始まるアメリカ・ツアーを計画した。そして、悲劇はここから始まったのである。
最後に『web-magazine GYAN GYAN』で未掲載だった作品、
「“存在すること”の不安」をお届けしたいと思います。
これはメルマガ『文学メルマ』のために書き下ろした作品で、
同誌2002年6月25日号から7月17日号に掲載されました。
長い作品なので、4部に分けてお届けすることにします。
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1、ロジャー・ウォーターズの“宇宙”
2002年3月28日、ロジャー・ウォーターズは、東京国際フォーラムに“宇宙”を創造した。この場合の“宇宙”とは、文字通りの物理的な空間のことではなく、人間の内面に存在している精神世界を指している。彼は自己の中にある“宇宙”を、音と光と映像を融合させて、3時間という時空の中に出現させたのである。
ステージにおけるロジャーは、非常にリラックスしているように見えた。それは、かつて我々が目にした、脅迫観念におびえるナーバスなロジャーでも、傲慢な態度で独裁者としてふるまうロジャーでもなかった。彼は非常に冷静な態度で、自身が抱える精神世界のすべてを、聴衆の前にさらけ出したのである。バック・バンドは各曲のオリジナル・サウンドを再現することに専念し、新たな解釈を加えることは極力抑えられていた。
「達観したな…。」
私は、そんなロジャーが、表現者として一段高い境地に到達していることを感じた。修羅場のような創作活動の果てに、彼が辿り着いた境地は“自然体”。すべての事象をあるがままにとらえ、自然に沸き上がってくる創作の意欲に身をまかせるということだ。
「これから、何かを始めようとしているんだ…。」
ラストに披露した新曲には、現在のロジャーの姿が投影されていた。会場全体を包み込むような、慈愛の光に満ちたこのナンバーが、彼の新しい第一歩を象徴していたのである。
そんなロジャーを語る際に、無視することのできない存在がピンク・フロイドだ。
ロジャー・ウォーターズが1983年まで、ピンク・フロイドの中心的メンバーとして活躍していたことは周知の事実である。ピンク・フロイドは、ロック・シーンにおけるトップ・グループであり、プログレッシブ・ロックというジャンルの創始者だ。ロジャー・ウォーターズは、ピンク・フロイドの基本コンセプトを維持し、音楽ファンに発信し続けてきた。彼のこれまでの創作活動は、その大半をピンク・フロイドに捧げたと言っても過言ではあるまい。
そして、ピンク・フロイドにおけるロジャー・ウォーターズを語る際に、欠かすことができないキーワードが3つある。
まず、シド・バレット、
そして、『The Dark Side Of The Moon』、
最後に『The Wall』。
この3つのキーワードがロジャーの精神世界に及ぼした影響力の大きさは、東京国際フォーラムのステージからも、窺い知ることができたのである。
ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、ニック・メイスンが参加していたスクール・バンドとシド・バレットが出会ったのは、1965年のこと。彼等はまず“ピンク・フロイド・サウンド”と名乗り、その後グループ名を“ピンク・フロイド”に改めた。
“ピンク・フロイド”というグループ名は、シド・バレットが当時飼っていた2匹の猫、“ピンク”と“フロイド”から付けられたそうである。“ピンク”も“フロイド”も、ブルースマンのファーストネームだ。“ピンク”はピンク・アンダースン、“フロイド”はフロイド・カウンシル。
グループ名の由来からもわかる通り、初期のピンク・フロイドはシドのワンマン・バンドである。シド・バレットが、ピンク・フロイドの基本コンセプトを確立したのだ。そしてシドは、シュールな詩とサイケデリックな音のセンスによって、次第にカリスマ視されるようになったのである。
しかし、シドを含めたピンク・フロイドのメンバーは、音楽を表現するテクニックが稚拙過ぎて、カリスマの意識の中にある音を、100%表現することができなかったのだ。おかげで、ピンク・フロイドのデビュー・アルバム『The Piper At The Gates Of Dawn(夜明けの口笛吹き)』は、“少しねじれた奇妙なポップス”という印象を聴き手に与える程度の、中途半端な完成度で終わってしまったのである。
例えば、「Interstellar Overdrive(星空のドライブ)」というナンバーがある。イレギュラーなタッチのリフが印象的で、コンセプトもおもしろい。しかし、演奏が今一歩であるため、インプロビゼイションが白熱せず、不完全燃焼の状態のまま終わってしまうのである。おかげで聴き手は、熟していない果物を食べた後のような、物足りなさを感じてしまうのだ。
“おもしろい”が“凄い”へ熟成しなかったことが、初期ピンク・フロイドの致命傷になっていたのである。しかし、ピンク・フロイドのマネジメント側は、そのような状態を気にもとめずに、彼等をポップ・アイドルとして売り出すことに執心した。シド・バレットの、耽美的な美少年ぶりが災いしたのだ。ピンク・フロイドは、1967年10月から始まるアメリカ・ツアーを計画した。そして、悲劇はここから始まったのである。
★2008/08/31 (Sun)
PINK FLOYD の『THE DARK SIDE OF THE MOON』
を語った際に、
“プログレッシブ・ロック”系のギタリストには、
クラシックやジャズ出身の人が多く、
いわゆる、
通常のロック・ギターとは違うマナーを身につけているため、
私には少々近寄り難い存在ばかりでした。
と述べましたが、
“通常のロック・ギターとは違うマナー”とは、
早い話が、
演奏中に左手親指(弦を押さえる方です)がどこにあるか?
ということなのです。
ブルース・ギターをベースとするロック・ギターでは、
左手親指はギターのネックの6弦側に、
正面から見てもその存在が確認できる位置にあります。
つまり、
左手でネックを握るような感じになるのですが、
こうなることで、
ビブラートをかける際には、
弦と垂直な方向へ力がかかります。
これに対して、
クラシックやジャズギターでは、
左手親指はギターのネックの背中、
指板の裏側にあり、
正面からはその存在が確認できません。
ビブラートをかける際には、
弦と平行な方向へ力がかかります。
(※ 厳密に言えば、
演奏内容によって、
両者を適当に使い分ける場合もあるわけですが、
ここではあくまで、
基本的な演奏スタイルがどちらによるものか、
という観点で話を進めていくことにします。)
左手親指をギターのネックの背中に置くスタイルで、
ジミー・ペイジのように低い位置でギターをかまえようとすると、
足元まで届くような手の長さが必要となり、
オランウータンやチンパンジーでもない限り、
そんなことはできなくなってしまいます。
そこで、
左手親指をギターのネックの背中に置く、
クラシックやジャズギターのスタイルでは、
スティーブ・ハウ(イエス)のように、
脇の下あたりで抱えるほどギターの位置を上にするか、
ロバート・フリップ(キング・クリムゾン)のように、
いっそ座ってしまうか、
という対応をせざるを得なくなります。
これは、
キース・リチャーズに憧れてこの世界に入った少年にとって、
耐えられない程イカさないことでした。
中学3年の頃(1976年)、
NHKのヤングミュージックショウでイエスを見た際、
その圧倒的な演奏に感動したものの、
スティーブ・ハウの立ち姿に違和感を覚えたものです。
「バタやんか?」(=田端義男さんのことです)
またキング・クリムゾンでは、
グレッグ・レイクが、
「おい、キノコみたいだから、座るのをやめろ」
と言ったとか…。
おもしろいのは、
ジェネシスのスティーブ・ハケットで、
当初は左手親指をギターのネックの背中に置くスタイルで、
ステージでも座って演奏していたのですが、
ピーター・ガブリエル脱退後、
突如として立って演奏するようになり、
ソロ以降は、
しっかりと左手親指がギターのネックの6弦側に出てきていたという、
途中でスタイルを変えた珍しい例になっています。
そういえば、
スティーブ・ハウもエイジアでは、
それほど高い位置でギターを抱えておりませんでした。
つまり、
トレーニングで、
ある程度どうにでもなるレベルなのですが、
ロバート・フリップだけは、
相変わらずのようです。
たかが左手親指、
と思うかもしれませんが、
どうやらこんな部分にも、
ギタリストの主張が表れているようです。
いずれにしても当時の私は、
ペケペケした音で、
複雑なフレーズを弾きこなすギタリストより、
デイブ・ギルモアの、
「クィ〜ン」と伸びる、
チョ−キング一発の方に、
より親近感を持ったということです。
その後、
長い年月の間に、
その考え方が変化するのですが、
それはまたの機会ということにしましょう。
を語った際に、
“プログレッシブ・ロック”系のギタリストには、
クラシックやジャズ出身の人が多く、
いわゆる、
通常のロック・ギターとは違うマナーを身につけているため、
私には少々近寄り難い存在ばかりでした。
と述べましたが、
“通常のロック・ギターとは違うマナー”とは、
早い話が、
演奏中に左手親指(弦を押さえる方です)がどこにあるか?
ということなのです。
ブルース・ギターをベースとするロック・ギターでは、
左手親指はギターのネックの6弦側に、
正面から見てもその存在が確認できる位置にあります。
つまり、
左手でネックを握るような感じになるのですが、
こうなることで、
ビブラートをかける際には、
弦と垂直な方向へ力がかかります。
これに対して、
クラシックやジャズギターでは、
左手親指はギターのネックの背中、
指板の裏側にあり、
正面からはその存在が確認できません。
ビブラートをかける際には、
弦と平行な方向へ力がかかります。
(※ 厳密に言えば、
演奏内容によって、
両者を適当に使い分ける場合もあるわけですが、
ここではあくまで、
基本的な演奏スタイルがどちらによるものか、
という観点で話を進めていくことにします。)
左手親指をギターのネックの背中に置くスタイルで、
ジミー・ペイジのように低い位置でギターをかまえようとすると、
足元まで届くような手の長さが必要となり、
オランウータンやチンパンジーでもない限り、
そんなことはできなくなってしまいます。
そこで、
左手親指をギターのネックの背中に置く、
クラシックやジャズギターのスタイルでは、
スティーブ・ハウ(イエス)のように、
脇の下あたりで抱えるほどギターの位置を上にするか、
ロバート・フリップ(キング・クリムゾン)のように、
いっそ座ってしまうか、
という対応をせざるを得なくなります。
これは、
キース・リチャーズに憧れてこの世界に入った少年にとって、
耐えられない程イカさないことでした。
中学3年の頃(1976年)、
NHKのヤングミュージックショウでイエスを見た際、
その圧倒的な演奏に感動したものの、
スティーブ・ハウの立ち姿に違和感を覚えたものです。
「バタやんか?」(=田端義男さんのことです)
またキング・クリムゾンでは、
グレッグ・レイクが、
「おい、キノコみたいだから、座るのをやめろ」
と言ったとか…。
おもしろいのは、
ジェネシスのスティーブ・ハケットで、
当初は左手親指をギターのネックの背中に置くスタイルで、
ステージでも座って演奏していたのですが、
ピーター・ガブリエル脱退後、
突如として立って演奏するようになり、
ソロ以降は、
しっかりと左手親指がギターのネックの6弦側に出てきていたという、
途中でスタイルを変えた珍しい例になっています。
そういえば、
スティーブ・ハウもエイジアでは、
それほど高い位置でギターを抱えておりませんでした。
つまり、
トレーニングで、
ある程度どうにでもなるレベルなのですが、
ロバート・フリップだけは、
相変わらずのようです。
たかが左手親指、
と思うかもしれませんが、
どうやらこんな部分にも、
ギタリストの主張が表れているようです。
いずれにしても当時の私は、
ペケペケした音で、
複雑なフレーズを弾きこなすギタリストより、
デイブ・ギルモアの、
「クィ〜ン」と伸びる、
チョ−キング一発の方に、
より親近感を持ったということです。
その後、
長い年月の間に、
その考え方が変化するのですが、
それはまたの機会ということにしましょう。
★2008/08/26 (Tue)
とつぜんですが…、
オリンピックの閉会式、
見ました?
じっ、じみー・ぺいじっすよ。
むっ、胸いっぱいの愛っすよ。
いや〜さすがにえげれすじゃ。
♪わなほならろーっわなほならろーっ♪
オリンピックの閉会式、
見ました?
じっ、じみー・ぺいじっすよ。
むっ、胸いっぱいの愛っすよ。
いや〜さすがにえげれすじゃ。
♪わなほならろーっわなほならろーっ♪
★2008/08/24 (Sun)
5回にわたってお届けした、
『WHAT'S プログレ(プログレってなんだ?)』で、
プログレッシブ・ロックを再検証しましたが、
今回は私のプログレッシブ・ロック遍歴について、
語らせていただきます。
先に述べた通り、
『狂気』をきっかけとして、
ピンク・フロイドの世界にハマった私ですが、
彼らは別格として、
5大バンドの中で強く影響を受けたのは、
キング・クリムゾンとジェネシスです。
キング・クリムゾンでは、
『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』…、
いやゆる“後期キング・クリムゾン”と呼ばれた時期。
ジェネシスでは、
『フォックストロット』、『月影の騎士』、
『ジェネシス・ライブ』、『眩惑のブロードウェイ』、
『トリック・オブ・ザ・テイル』、『静寂の嵐』…、
ピーター・ガブリエル脱退をはさんだ前後の時期、
ということになります。
彼らについてはバンド作品だけでなく、
メンバーのソロ作品…、
ブラッフォードやブランドX、
それからピーター・ガブリエルのソロまで、
揃えたものです。
EL&Pはギタリストがいなかったこと、
イエスはギタリストに馴染めなかったこと、
を理由にそれほど夢中にはなれませんでした。
それ以外で、
私が一時期、
夢中になったのは、
カナダのラッシュでした。
ラッシュは『グレイス・アンダー・プレッシャー』で失望するまで、
1982年発表の『シグナルズ』までの11枚は、
どのアルバムもよく聴いたものです。
プログレッシブ・ロックという観点でベストを選ぶとすれば、
1977年発表の『ア・フェアウェル・トゥ・キングス』でしょう。
イエス+レッド・ツェッペリンとでもいいましょうか、
硬質でメタリックな音がイカした作品です。
5大バンド以外のイギリス勢では、
周囲が騒いでいた、
キャメルにはそれほど興味を持たず、
ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターや
ソフト・マシーン、
カーブド・エアーなどをよく聴きました。
とくに、
ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターには、
“裏”ピーター・ガブリエルと言われた、
ピーター・ハミルが在籍しており、
その高い芸術性に感動したものです。
そして、
イギリスのマイナーどころを一通り押さえた後、
アトール(フランス)の『夢魔』を聴き、
イギリス以外のヨーロッパ各国のロック、
いわゆる“ユーロ・ロック”の世界にドップリと浸ってしまったのです。
これが19〜20歳頃のこと。
“ユーロ・ロック”については何度も言及している通り、
ヨーロッパ各国に、
それぞれの国ならではのロックがあるのでは?
と思うのは、
我々の勝手な思い入れであって、
実際は、
イギリスやアメリカのメジャーどころに
影響を受けたバンドが大多数を占めています。
つまり、
日本と同じような状況なのです。
ヨーロッパでは、
ジェネシスやEL&Pの影響を受けたバンドが多く、
とくにクラシック・ミュージックに人気がある、
イタリアなどでは顕著にその特徴が現れています。
ただ、
そうは言っても、
長年にわたって“ユーロ・ロック”を研究したおかげで、
たくさんの駄作に泣かされながらも、
多くの孤高の存在に出会うことができました。
これは私の大きな財産となっています。
フランスでは、
先に述べたアトール、
マグマ、エルドン。
イタリアでは、
アレア、PFM、ゴブリン。
ドイツでは、
クラウス・シュルツ、アシュラ・テンプル、
タンジェリン・ドリーム。
オランダのフォーカス、トレース。
スイスのアイランド、SFF。
ベルギーのユニヴェル・ゼロ。
カナダ東部フランス語圏のポーレン、マネイジュ。
旧東ドイツのシュテルン・マイツェン…。
1990年以降でも、
イタリアのカリオペ、シンドーネ、
北欧系でアネクドテン、アングラカルト、ホワイトウィロー、
などなど…。
すぐに思いつくだけでも、
こんなに素晴らしいバンドの名前がスラスラと出てきます。
余談ですが、
この世界では、
その個性的なサウンドのおかげで、
イギリスのキング・クリムゾンに対して、
フランスのマグマ、
イタリアのアレア、
ドイツのファウストを指して、
“ヨーロッパの怪物四天王”などと言われております。
いずれにしても、
プログレッシブ・ロック系のバンドは、
それぞれの美意識を持っており、
我々が
「か〜っ、プログレっていいなぁ」っと感じる瞬間は、
その美意識が共感した瞬間であると言えます、
ロックの美意識を追求したプログレッシブ・ロックは、
いまやいずこに…。
どうしよう、
…などと言っていたら、
また、
ジェネシスのコピーバンドをやりたくなってきた。
『WHAT'S プログレ(プログレってなんだ?)』で、
プログレッシブ・ロックを再検証しましたが、
今回は私のプログレッシブ・ロック遍歴について、
語らせていただきます。
先に述べた通り、
『狂気』をきっかけとして、
ピンク・フロイドの世界にハマった私ですが、
彼らは別格として、
5大バンドの中で強く影響を受けたのは、
キング・クリムゾンとジェネシスです。
キング・クリムゾンでは、
『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』…、
いやゆる“後期キング・クリムゾン”と呼ばれた時期。
ジェネシスでは、
『フォックストロット』、『月影の騎士』、
『ジェネシス・ライブ』、『眩惑のブロードウェイ』、
『トリック・オブ・ザ・テイル』、『静寂の嵐』…、
ピーター・ガブリエル脱退をはさんだ前後の時期、
ということになります。
彼らについてはバンド作品だけでなく、
メンバーのソロ作品…、
ブラッフォードやブランドX、
それからピーター・ガブリエルのソロまで、
揃えたものです。
EL&Pはギタリストがいなかったこと、
イエスはギタリストに馴染めなかったこと、
を理由にそれほど夢中にはなれませんでした。
それ以外で、
私が一時期、
夢中になったのは、
カナダのラッシュでした。
ラッシュは『グレイス・アンダー・プレッシャー』で失望するまで、
1982年発表の『シグナルズ』までの11枚は、
どのアルバムもよく聴いたものです。
プログレッシブ・ロックという観点でベストを選ぶとすれば、
1977年発表の『ア・フェアウェル・トゥ・キングス』でしょう。
イエス+レッド・ツェッペリンとでもいいましょうか、
硬質でメタリックな音がイカした作品です。
5大バンド以外のイギリス勢では、
周囲が騒いでいた、
キャメルにはそれほど興味を持たず、
ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターや
ソフト・マシーン、
カーブド・エアーなどをよく聴きました。
とくに、
ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターには、
“裏”ピーター・ガブリエルと言われた、
ピーター・ハミルが在籍しており、
その高い芸術性に感動したものです。
そして、
イギリスのマイナーどころを一通り押さえた後、
アトール(フランス)の『夢魔』を聴き、
イギリス以外のヨーロッパ各国のロック、
いわゆる“ユーロ・ロック”の世界にドップリと浸ってしまったのです。
これが19〜20歳頃のこと。
“ユーロ・ロック”については何度も言及している通り、
ヨーロッパ各国に、
それぞれの国ならではのロックがあるのでは?
と思うのは、
我々の勝手な思い入れであって、
実際は、
イギリスやアメリカのメジャーどころに
影響を受けたバンドが大多数を占めています。
つまり、
日本と同じような状況なのです。
ヨーロッパでは、
ジェネシスやEL&Pの影響を受けたバンドが多く、
とくにクラシック・ミュージックに人気がある、
イタリアなどでは顕著にその特徴が現れています。
ただ、
そうは言っても、
長年にわたって“ユーロ・ロック”を研究したおかげで、
たくさんの駄作に泣かされながらも、
多くの孤高の存在に出会うことができました。
これは私の大きな財産となっています。
フランスでは、
先に述べたアトール、
マグマ、エルドン。
イタリアでは、
アレア、PFM、ゴブリン。
ドイツでは、
クラウス・シュルツ、アシュラ・テンプル、
タンジェリン・ドリーム。
オランダのフォーカス、トレース。
スイスのアイランド、SFF。
ベルギーのユニヴェル・ゼロ。
カナダ東部フランス語圏のポーレン、マネイジュ。
旧東ドイツのシュテルン・マイツェン…。
1990年以降でも、
イタリアのカリオペ、シンドーネ、
北欧系でアネクドテン、アングラカルト、ホワイトウィロー、
などなど…。
すぐに思いつくだけでも、
こんなに素晴らしいバンドの名前がスラスラと出てきます。
余談ですが、
この世界では、
その個性的なサウンドのおかげで、
イギリスのキング・クリムゾンに対して、
フランスのマグマ、
イタリアのアレア、
ドイツのファウストを指して、
“ヨーロッパの怪物四天王”などと言われております。
いずれにしても、
プログレッシブ・ロック系のバンドは、
それぞれの美意識を持っており、
我々が
「か〜っ、プログレっていいなぁ」っと感じる瞬間は、
その美意識が共感した瞬間であると言えます、
ロックの美意識を追求したプログレッシブ・ロックは、
いまやいずこに…。
どうしよう、
…などと言っていたら、
また、
ジェネシスのコピーバンドをやりたくなってきた。